【アイモバ遠征ファイナル】完全走破!日本横断3000km高速道路の旅【1】

こんにちは。北陸の食パンです。

ただひたすら作業感が漂う過去のアイモバ遠征備忘録もこの遠征でようやく終わりです。書こうと思った矢先にいろいろと忙しかったので、今頃書き始める始末ですよと・・・。

実際のところ、理想としては大経年劣化祭の前に終わらせたかったんですけどねえ(白目)

さて、今回は過去のアイモバ遠征第拾八弾もといファイナルということで、完全走破!日本横断3000km高速道路の旅(2015年11月27日出発、2015年11月30日帰着)をお送りしますよ。

今回は3部作になりますので、最後まで過度な期待はせずよろしくお願いしますね。

前説1:当初の遠征計画頓挫・・・

今回は、訳あって前説が2つに分かれている。

前説1では、結果的におじゃんになってしまった遠征計画について述べることにする。

もともと、この日程の遠征は、わいの直近の界隈の一人であり、アイモバ遠征における盟友でもあるらいちょうPと名古屋発、中国地方のエリア制覇遠征(隠岐含む)という遠征を予定していた。

27日の夜に名古屋を発ち、28日の朝方に松江について、隠岐へ向かい、日帰りでまた戻り、28日の夜に益田まで進んで、泊まり。翌29日は山陽側を経由して名古屋に戻るという計画だった。

しかし、遠征の1週間前にらいちょうPが遠征当日仕事が入ってしまった関係で、遠征計画は消えてしまった。これが最初で最後の唯一の幻のアイモバ遠征であった・・・。

前説2:アイモバi終了予告で悲しみにくれていた某氏にドッキリを仕掛け・・・

前説1で遠征計画が立ち消えしてしまった一方で、ある日わいの直近の界隈の一人であるラカオッテ君がツイキャスを開いていた。テーマとしては、アイモバiの終了宣告を受けての思いをつづっていたのである。

そのときの彼は泣いていた。こみ上げる思いを抑えきれず泣きながらツイキャスでアイモバiに対する思いを語っていた。とりあえず、悟られぬように(?)潜りつつ、時折コメントを入れてたのであったが、わいはここで気づいてしまった。

コラボできるじゃんこれ。

その瞬間、ラカオッテ君のキャスコラボにいきなり乱入したわい。悲しみにくれていたラカオッテ君を励ますべく、いろいろと言葉をかけた。そして、今までのアイモバ遠征至上異例の発言をここですることになる。それは・・・

「それなら最後に一発思い出作ろうか。1週間後に西日本に遠征しに行こうや」

わいができることであり、彼のためにできること・・・

それは、一緒に大規模なアイモバ遠征しに行くことであった。

キャス中にいろいろと計画を練って、実行は1週間後ねということを告げて、あの時のキャスは終了となった。

ぶっちゃけた話、残り1週間でこれから語る規模の遠征なんて実現できるのかと思ったかといえば、そうでもないし、彼も半信半疑だったと思う。

でも、わいが大規模なアイモバ遠征できる最後のチャンスはそこしかなかったのは明白で、言ったからにはやるしかないと思った。

なお、彼が心配していたのはお金がないということであったが、「そこは後日返済していただくことでカバーすればいいから、問題ない」と声をかけて、準備期間わずか1週間という最後の大規模アイモバ遠征の日を迎えることとなったのだ・・・。

しかも、遠征当日の行程が3日間で・・・

スタート(町田市内)→戸塚→呉・広島→益田→富山・石川→長野→戸塚→ゴール(町田市内)

とかいう3日で走る距離とは思えない大移動をすることになるのだ。ある意味アイモバ遠征のファイナルにふさわしいともいえるが・・・。

さて、準備期間わずか1週間かつ大規模な移動を伴う最後のアイモバ遠征はいったいどうなってしまうのか・・・。

壱:ひたすら西へ突き進め(東京 町田エリア~兵庫 北播磨エリア)

そして、遠征当日、離島から帰ってきたわいは最後のアイモバ遠征の士気を高めることに必死だった。そして、夜になり、小田急線の某駅まで向かい、その最寄りのレンタカー屋で車を借りて、最後のアイモバ遠征のスタートを切った。

ちなみに、今回の遠征で、予めラカオッテ君は、当時のブログで「できる限りツイキャスで遠征の模様を配信します」と宣言したことから、できる限りツイキャスを配信し続けながらの遠征と相成った。

そして、ラカオッテ君の当時のバイト先に向かい、バイト終わりのラカオッテ君を拾って、ラカオッテ君の運転で最後のアイモバ遠征へと向かうのであった・・・。

キャスを垂れ流しながら、「水曜どうでしょう」的なノリで、テンポのいい会話をする二人。

スタートしてからは、いったん長後駅に向かい、ラカオッテ君のチャリを回収、その後ラカオッテ君の家へと向かう(なお、ルート図上では彼の最寄り駅の戸塚駅で濁してます。さすがに家の位置を載せるわけにはいかないので)。

ラカオッテ君の家で、チャリを下して、今回の遠征の荷物の積込をした後、いよいよ本格的に出発する。

戸塚界隈で、ラカオッテ君の知り合いとエンカした後、西日本に向かって出発。国道1号をトレースし、藤沢ICから新湘南バイパスに入り、茅ケ崎中央JCTから圏央道、海老名JCTで東名高速に乗り換えて西へ向かう。

海老名JCTで東名高速に入った後のルート図はこちら。

静岡県に入ってから最初のSAである足柄SAで一緒に風呂に入り(SA内に風呂がある)、その後新東名高速道路を浜松いなさJCTまでトレース(当時はそこまでしか開通していなかった)し、また東名高速道路に戻る形となっている。

なお、ラカオッテ君はすでに静岡駅周辺エリアを代行ではあるが制覇している関係で、新東名経由を選んだ次第であった。

遠征当時、エヴァンゲリオンとのタイアップが行われている足柄SAの夜の様子を撮ったものがこちら。(なお、タイアップは2016年のGWをもって終了した模様)

この足柄SAは、「通過型サービスエリア」から「滞在型サービスエリア」へ質的転換を図る新しいスタイルのサービスエリアを目指し、複合商業施設化を図っている最中とのこと。

ちなみに、足柄SAには上下線ともに風呂があるという珍しいSAで、さらに上り線には宿泊施設も設置されている。

足柄SAで休憩後も、ラカオッテ君の運転で新東名経由で闇夜の深い中さらに西へと向かう。

静岡県の西端である三ケ日JCT~京都府までのルート図は以上の通り。

名古屋近辺および京都府内の各エリア表記は省略させていただいたので、ご容赦のほど。

新城PAでキャスを流している携帯ホルダーの固定し直し(それまで何度か落下していた。)を行い、再出発する。(その後一度も落下せず)

その後、伊勢湾岸道・東名阪道を経由し、新名神の甲南PAでようやく運転士交代となる。

当初は足柄SAで交代するかーとか言っていたのだが、滋賀県までラカオッテ君が頑張る結果に。どうしてこうなったw

甲南PAで、日の出の刻を迎えつつある状況だったが、外に出るとクッソ寒くて動いていないと非常に厳しい環境であったことはここだけの話にしておこう。

そして、甲南PAから先しばらくはわいの運転となる。というのも、当時免許とりたてだったラカオッテ君に草津JCT~吹田JCT~神戸JCTとかいうある種の魔境区間を運転させるのは酷だと思ったので、そこだけはわいの運転指定区間にさせていただいた次第である。

というても、日本の高速道路を様々走ってきたわいが一番Dislikeな区間はどこかというと・・・

草津JCT~吹田JCT~神戸JCT

そう、これから通る区間である。(ちなみに二番目にDislikeな区間は、九州道の大宰府IC~鳥栖JCT間である)

何がDislikeかって、交通量が半端なく多いのと、頻発する渋滞(だいたい宝塚トンネルのせい)である。

そして、名神に入ったとたんの電光掲示板にて見たくもない文字を見てしまった・・・

西宮山口JCTを先頭に15kmの渋滞

知 っ て た

お ま た せ

い つ も の

宝 塚 ト ン ネ ル

親 の 顔 よ り 見 た 光 景

実 家 の よ う な 安 心 感

なーにが実家のような安心感じゃ。こちとら気分萎えまくっとんじゃ。

今回のこのルートは、幾度も車で九州に行くときと同じルートだから、知ってたけどさ・・・。

運転者としてあそこの渋滞に巻き込まれるわけだから割かし辛い。さすがは呪いの区間である。

大阪府内に入ってから兵庫県を抜けるまでのルート図は以上の通り。大阪府内のエリア表記は省略させていただいた。

渋滞とは無縁の名神高速道路をそそくさと走り抜け、何度も通ってるからとりわけ新鮮味を感じない(わい基準。ラカオッテ君は喜んでたけどw)吹田JCTを抜け、悪魔の渋滞ゾーンへと突っ込んでいくのだ。

中国豊中ICを過ぎたあたりから流れが悪くなり、そのまま渋滞の列に突っ込む。

運転者としては初めてあの区間まともに走ったけど、やっぱりあそこはギルティだわ。

結果的に、今回の遠征で唯一の大規模渋滞であったが、この渋滞で約1時間のロス。この後の行程本当に大丈夫なのか・・・。

西宮山口JCT近くで渋滞を抜けた後、神戸JCTで山陽自動車道方面に進路を切り替え、さらに西へと進む。

ラカオッテ君にとっては初めてづくしである風景も、わいにとっては見慣れた(?)風景であるので、そこまでわくわく感はない。

(この写真はラカオッテ君からの提供です)

途中の三木SAで給油+遅めの朝飯休憩となった。

美希だけに三木SAで記念撮影。誰がうまいこと言えと(ry

(この写真はラカオッテ君からの提供です)

この日の朝飯は、ラカオッテ君はそば、わいは朝定食なるものを食べてた。

弐:悲願の赤塗りの地へと向かい、かつての海軍基地の風を感じる(兵庫 北播磨エリア~広島 呉エリア)

三木SA到着時点で9時を回っており、本格的な出発からはや11時間が経過。

第一目的地である広島県呉市に近づいてはいるもののまだまだ遠い。(まあ、九州の実家に行くときに比べればまだまだマシであることは事実)

給油後は再びわいの運転で、再び西へと向かう。

神戸JCTから先岡山あたりまでのルート図がこちら。

三木SAが、北播磨エリア内にあるので、そこから再びスタートを切って岡山・広島方面へと向かう。

先ほどの渋滞でロスった時間をなるべく回復するため、わいのアイモバ遠征における技であるアクロバティック運転でハイペースを維持しながら、とにかく先を急ぐ。

岡山から先、広島方面のルート図は以上の通り。

高坂PAでいったん休憩後、ラカオッテ君の運転に変わる。とはいっても、ラカオッテ君は30時間以上起きっぱなしという状況であったので少しの間だけ(といっても15分くらいだけど)仮眠させてあげた。

その後、高屋JCTで山陽自動車道から離れ、東広島・呉自動車道に乗りついで、いよいよ第一目的地である呉へ。

呉の街並みと瀬戸内海が見えた瞬間、2人ともテンションがMAXになった。

そして、正午前に呉市内に到着となる。

大和ミュージアムの駐車場に停めたあと、呉の造船所方向に向かって撮った写真がこちら。

地形的に天然の良港と言われ、古くは村上水軍の一派が根城にしており、明治時代以降は、帝国海軍・海上自衛隊の拠点となっている呉。かつて、第二次世界大戦中は、帝国海軍の拠点でもあり、当時は全国10大都市に数えられるほどの実に40万人を越える人口を抱えていたそうである。

戦後は、造船・鉄鋼・パルプ・機械・金属などを中心とした臨海工業都市として発展を遂げている。

ちなみに、呉市の人口は広島県内では福山市に次ぎ3位ということで、三原や尾道よりも人口が多いようである。

(この写真はラカオッテ君からの提供です)

ちょこっと呉駅の様子を外から眺めると、広島地区の最新鋭車両である227系を拝むことができた。

個人的には、115系が見たかったが、227系を初めて見ることができたので、それはそれでよしとしよう。

呉駅を眺めた後は、駅前にあるスーパー銭湯へと向かい、一風呂浴びることとした。

銭湯系のお約束といえば、こちら。

72という数字をバックに怒った千早を撮るのはもはや伝統芸能。

って、ちーちゃん冗談だから。怒らないで。お願いします許してk(以下、粛清されました)

それはさておき、風呂の中で1時間くらい眠りこけつつ、ここまでの疲れをとりあえず癒すことはできたと思う。

一風呂浴びてから、いよいよ今回の遠征においてまともな観光第一弾として、大和ミュージアム(正式名称は呉市海事歴史科学館という)を訪問する。

大和ミュージアムに連絡する連絡橋(ペデストリアンデッキ)から撮影した一コマがこちらである。

奥に見える潜水艦の正体は後程明らかにすることにしよう。

奥に見える潜水艦の大きさにびっくりする千早と、「ふーん」といわんばかりに興味なさそうな美希の図がこちらw

大和ミュージアムの表示を撮るラカオッテ君を撮るわい。

ということで、大和ミュージアムの中を見学することにしよう。

入口を入ってすぐの『大和ひろば』には、実物の10分の1サイズの戦艦大和の模型が展示されている。

この模型は、大和の海底調査や発見された資料により判明した最新の情報に基づいて制作されており、新たに判明した史実や資料があれば随時それに合わせて改装されているそうだ。

なので、完成しているように見えるが、実際のところは完成はしてないということになる。

戦艦大和の模型の前で千早を撮る。場所が場所なだけにまじめな顔つきになっている。

戦艦大和の模型の細部を見るとかなり精巧なつくりになっていることがおわかりいただけるだろうか。

(この写真はラカオッテ君からの提供です)

ラカオッテ君が持参した美希フィギュアと戦艦大和の模型とのコラボ。美希も戦艦大和の模型が気になるようである。

別の場所では、零式艦上戦闘機六二型も展示されている。いわゆるぜろせん(れいせん)である。

この飛行機は、終戦間際に琵琶湖へ不時着水し湖底に沈んでいた機体を1978年(昭和53年)に引き上げられ、京都嵐山美術館が外観を修復したものらしい。

零式艦上戦闘機には、様々な型式が存在するが、この六二型は太平洋戦争末期に製造された機体だそうである。

大和ミュージアム見学後、再び例の潜水艦を撮影する。

この潜水艦が展示されている施設は、「海上自衛隊呉史料館」と呼ばれる施設で、この展示されている潜水艦は実際に海上自衛隊で就役していたゆうしお型潜水艦の「あきしお」 (SS-579) である。

「あきしお」は2004年3月に除籍となった後、展示用に内部機器の交換や汚れを落とすなどし、2006年9月24日から26日に建設中の呉史料館への搬入が実施されたそうだ。

なお、この後の行程上、潜水艦の前まで行って、史料館の見学はあきらめることとした。

次回、呉に再訪した際は、是非とも寄ってみたいところである。

そして、大和ミュージアムからちょこっと車で移動する。ここで、ラカオッテ君の希望もあり、旧呉海軍工廠の付近を見学することにした。

現在はジャパン マリンユナイテッド呉工場として大型民間船舶の建造を行っている。両方の写真を見ると建造中の船舶がいくつか見られることがおわかりいただけるだろうか。

左の写真にある看板が、旧呉海軍工廠で戦艦大和が建造された証であることを示している。

ちなみに、「造船船渠(大和の建造用ドック)」は1993年に埋め立てられ、跡地は工場として再利用されているが、大和の修理を行った「船渠(ドック)」は現存しており、自衛艦や米軍艦船などの修理などで現在も使用中である。

旧呉海軍工廠の現在はジャパン マリンユナイテッド・日新製鋼・IHIなどの重工業地帯へと変わってはいるのだが、戦前から今も変わらず船舶の製造を続けているという点では、変わらないといえるのかもしれない。

軍港拠点時代から比べると人口がかなり減ってしまっている呉ではあるが、近年、広島県内の観光資源として見直されつつあり、年々呉を訪れている観光客は上昇傾向にあるそうだ。

呉は広島市からもさほど遠くない場所にあるので、機会があればセットで訪れてほしいところである。

旧呉海軍工廠をバックに千早を撮る。千早はこの風景を見て何を感じたのだろうか・・・。

なお、当初は江田島を巡る計画もあったが、時間の関係上省略することとなった。

参:広島でミニ観光を楽しみ、その後アイモバ過疎地域へ(兵庫 北播磨エリア~島根 益田エリア)

呉で観光した後は、いよいよ広島市内へと向かう。

広島観光が初めてのラカオッテ君は気分が高揚していた。一方のわいは、2009年に一度訪れたことはあるものの、久しぶりということもあってやっぱり気分が高まっていたw

さきほどのルート図を再掲する。

引き続きラカオッテ君の運転で呉から広島へ移動する。広島呉道路・広島高速3号線経由で、宇品から広島市街地へと向かう。

広電宇品線をトレースする形で入っていたので、広電の路面電車を眺めるのがすごく楽しかった。

そして、広島県庁近くにあるパーキングチケットスペースに車を停め、ラカオッテ君にパーキングチケットの使い方の講習をした後、路面電車で原爆ドームへと向かう。(わいは6年ぶり、ラカオッテ君は初めて)

原爆ドームに到着後、千早と絡めて撮影する。場所が場所だけに真面目な顔つきとなっている。

そして裏に回ってライトアップが始まりつつある原爆ドームを撮影。6年前は日中に行ったので、ライトアップの原爆ドームの姿を撮るのは初めてであった。

ここで、原爆ドームについての小話をさせていただくことにする。

この原爆ドームは、元々は広島県の様々な物産を展示するための広島県物産陳列館として開館され、原爆投下当時は広島県産業奨励館と呼ばれていた。

戦前、広島県産の製品の販路開拓の布石として建設され、広島の文化拠点としても大きく貢献したが、太平洋戦争が長引いた影響により、1944年3月31日には奨励館業務を停止し、内務省中国四国土木事務所・広島県地方木材株式会社・日本木材広島支社など、行政機関・統制組合の事務所としての機能を有することとなった。そのあと、原爆投下の日を迎えることとなる。

戦後、一時は原爆ドーム取り壊しの話も出ていたが、1949年8月6日に広島平和記念都市建設法が制定されると、恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として広島平和記念公園構想が本格化の動きを見せることとなる。

広島平和記念公園は1955年に完成し、原爆ドームはそのシンボルとして際立っていた。しかし、1960年代には風化が進んで崩落の危険が生じたことにより、再び取り壊しする方向への議論に発展していった。

そんな中、市内の大下学園祇園高等学校の生徒・楮山ヒロ子の日記を読み、感銘を受けた平和運動家の河本一郎や「広島折鶴の会」が中心となって保存を求める運動が行われ、ついに1966年に広島市議会において永久保存する決定が下され、今に至るのである。

その後、1995年に国の史跡となり、翌1996年にユネスコの世界遺産(文化遺産)への登録が決定された。

ちなみに、原爆ドームは負の世界遺産の一つとして知られている。(世界的に見れば、ほかにアウシュヴィッツ=ビルケナウ<いわゆるアウシュヴィッツの強制収容所>、ビキニ環礁の核実験場跡などがある)

(この写真はラカオッテ君からの提供です)

ラカオッテ君の美希フィギュアと原爆ドームのコラボ。

原爆ドーム見学後、夕食ということで生牡蠣(ラカオッテ君のご希望)を求めて、広島の繁華街に向かうが、意外にない上に、探し出せても予約制だったり、満席だったりという感じで埒があかず・・・。

生牡蠣は無理でも牡蠣は食いたい我らは、広島の街中から離れて、宇品の公園の一角にある牡蠣小屋を目指し、車を進める。

昼飯抜きで腹ペコだった我らは、牡蠣をはじめ様々な食材をチョイスし、いざ焼き場に行って、待望の夕食タイムとなる。

なお、写真に写っているもの以外に肉各種もあった模様(フラグ)

牡蠣を焼いてる様子の一コマ。これがまたたまらないんですわ。

昼飯抜きのわいは、勢いよく食べ、牡蠣はすべて食べたものの、肉を食っている途中で腹いっぱいとなってしまい轟沈発言。食べ物でイキった結果、轟沈するのは年に数度あるとかないとか

ラカオッテ君に後を託し、わいは早めに車に戻って1時間ほど休息した。

その後、ラカオッテ君が戻ってきたはいいが、20時に夕飯の場所を出る予定だったのに、すでに21時を過ぎていた。

この後、(当時)アイモバiの益田のヌシであるうっう~さんにお会いしに行くわけだが、時間的にかなり遅くなる(日付変わる)のは明白だったため、さすがに遅すぎるのはまずいかなあと一時は思ったわけである。けれども、うっう~さんは遅くなっても大丈夫とのことで、待ち合わせ場所を教えてもらい、広島から大回りで一路益田へと向かうことになった。

広島の前後のルート図がこちら。

ラカオッテ君の運転で、広島市内から、広島高速2号線・山陽自動車道・広島自動車道・中国自動車道を経由して大回りで益田へと向かう。

大回りにしたのは、ラカオッテ君のアイモバ制覇エリアを一つでも増やすためだ。

そして、久々に広島自動車道・中国自動車道(広島北JCT以西)を通る。特に中国自動車道を通った時は、ほとんど車がおらず、往時の状況を知るわいにとっては、非常におったまげてた記憶がある。

それもそのはず、山陽自動車道全通後は、関西~九州間を往来する大型車(トラック・高速バス)は山陽自動車道に続々とシフト。また、山間を通る中国自動車道を通るよりも、山陽自動車道ルートのほうが距離的にも近いこと、そして急こう配・急カーブの数も圧倒的に少ないことから、山陽自動車道が災害通行止めにならない限り、中国自動車道を通る車の数がかなり少なくなるのは明白であった。

とりわけ、広島北JCT~山口JCT間は、中国自動車道の中でも一番車の往来が少ない区間となっており、その影響で当該区間にあるSAのガソリンスタンド閉鎖となったのはもちろんのこと、SAに併設されている売店などの営業時間も大幅に短縮されることとなった。

とはいえ、中国自動車道は東北自動車道に次いで日本で二番目に長い高速道路である。特に中国自動車道沿道を通る各都市や、米子自動車道や浜田自動車道などを介する形にはなるが、山陰地方の各都市を結ぶ上では、今でも重要な位置にいるのは事実である。

また、中国自動車道は、中国地方の高速道路網の「背骨」になるようなルーティングを形成するように計画された(高速道路網形成初期は山陽自動車道の計画すらなかった)ために、山肌を縫うように建設された結果、高速道路としてはカーブやアップダウンの多い線形となっており、「西の山岳高速」の異名もある。

余談だが、広島を出たあたりから、わいの運転に感化されてしまったのか、ラカオッテ君の高速道路運転時の様子がスタート時と明らかに違っており、それはそれで面白かった記憶がある(ぉ

話が変わるが、中国自動車道走行中随所に雪があるのが見えた。そして、融雪剤を撒くための車も走行していた。中国自動車道を走っていて雪を見たのは初めてかもしれない・・・。

そして、鹿野ICで中国自動車道から離れ、国道315号と9号を経由していよいよ第弐の目的地である益田へと向かう。

益田に向かう前に益田のヌシであるうっう~さんにとある場所を教えてもらったので、そこにまずは向かった。

それが、こちら。

県境であることを示す看板の旧型バージョンである。うっう~さん曰く今ではかなりのレアものらしい。

この古さと看板のさび付き具合、そして当時あたりが若干霧がかっていたのもあり、少しばかりホラーチックになっていた・・・。

まさか、こんな形で島根県入り(実は中国自動車道走行中に一度入ってはいるが)するとは・・・。我々はいったいどうなってしまうのか・・・。


ということで、今回はここまで。

ダイジェストっぽくまとめたつもりですが、意外に内容がそこそこ深かった気がしますね。個人的に1日目は呉行けただけで非常に満足しております。

次回は、益田のヌシであるうっう~さんにいよいよお会いし、その後、北陸方面に向かって進撃してきます。

あと2回記事を書けば、過去のアイモバ遠征備忘録も完全に終わりますので、なるべく早いうちに仕上げようとは思ってます。

それでは、過度な期待はなさらずに、また次回お会いしましょう!

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