こんにちは。北陸の食パンです。
だいぶ間があいてしまいましたが、引き続きわいの過去のアイモバ遠征シリーズ第壱拾壱弾のアイモバ北海道アタックの旅(2013年10月21日発、10月23日帰着)をしてエリア制覇した記録の続きを書こうと思います。
この遠征は結構規模が大きかったので、ここまでいってしまいましたが、最初から読んでいただいた皆様には圧倒的大感謝させていただきます。
今回が最終回です。はい。
まだ、以前の記事を見てない方はこちらもあわせてお読みくださいね。
第一章 | 第二章 | 第三章 | 第四章 | 第五章 |
それでは、本題にいってみましょう。
壱拾四:北の勇者を求めて(遠征終了後の余興観光小樽編)
札幌市内をさらっと観光した後、わいが行きたかったあの場所へ行くために、小樽に向けて車を走らせることとした。札幌市内から抜ける前に、ガソリンがもうほとんどなかったので、給油したのち、国道5号をトレースして、小樽へと向かう。
小樽への往路ならびに復路のルート図はこちら。
往路は国道5号をトレース、復路は新千歳空港に早く戻るために札樽自動車道を使って、札樽間を往復している。
とりあえずは、国道5号の快走路を走りながら、小樽へと向かうわけですが・・・。
ちょっととある場所へ寄るために、一旦車を降りて付近を散策してみました。
まず、ある場所に立ち寄る前に、いい景色だなあと思う場所があったので、撮影してみる。
山の奥を橋梁で貫く札樽自動車道と海沿いを走る函館本線の両方を絡めて撮ってみました。
いかに急峻な地形の中に、札樽両区間を結ぶ高速道路と鉄路が築かれているかおわかりいただけると思う。
全体的にすごくいい景色なんだけど、唯一残念なのが手前に建っている建物があること。その建物がなければ、100点満点だったんだよなあ・・・。
ちなみに、手前に建っているコンクリート造りの建物は、やっぱりラブホテルでした。建物の見た感じでわかっちゃうんだよなあ。ええ景色の中にラブホテルがあると、ほんまに台無しやで。
ちょっとアングルを変えて、日本海をバックに撮影したものがこちら。
海に浮かぶ大きい岩は「恵比須岩」と呼ばれている。ちなみに恵比須岩の近くまで道があるので、下りることは可能であるが、函館本線を跨ぐ踏切から先は立ち入りが禁止されているようだ。
なお、恵比須岩のそばには、かつて漁師が生活していたであろう廃屋がいくつか見受けられた。
ちなみに、ここからでは見ることができないが、左側に見える崖の先には、秘境駅マニアの心をくすぐる「張碓駅」(2007年ごろ廃止。駅舎・ホームはすでに撤去済)があった。
さらにアングルを変えて、日本海を写す。はるか先にロシアの大陸は・・・見えるはずがないw
絶景をバックに千早を撮影する。
勘のいい方はお気づきになられたと思いますが、先ほどノーマルの写真で写っていた憎きラブホテルは隠しました。これぞ、アイモバカメラだからこそできる技!
この後、千早とラブホテルへ洒落k(以下、何者かにより粛清されました)
冗談はほどほどにして、今度は恵比寿岩と海沿いを走る函館本線をバックに千早を撮る。
札樽間は、それなりに列車本数があるのですが、滞在中は列車を走っている姿を拝むことができませんでした。
日本海をバックに千早を撮る。
見果てぬ先はユーラシア大陸があるのだ・・・。
さて、絶景(?)の写真を撮った後、少し歩いて、本当の寄り道先に向かう。
その寄り道先をここで明らかにしましょう。
「プロデューサーさん、春香ですよ。春香。」
この天下の一ケタ国道5号線にあざとく設置されているバス停こそ、JR北海道バスの「春香」バス停である。
「千早」は日本全国4か所(東京・名古屋・大阪府内・福岡)にあるので、ある意味レアとは言い難いのだが、この「春香」は、日本全国さがしても、この小樽市内にある1か所のみにしか存在しない地名である。
地名上は、小樽市春香町という地名となっているが、小樽の中心からは遠くはなれている。
小樽市春香町があるのは、だいたい小樽の中でも札幌に近い場所と覚えておけば大丈夫ですw
旅好きの天海春香Pの皆さんは、一度はこの「春香」バス停に訪れてみてはいかがでしょうかね?
寄り道を済ませた後は、再び小樽市街へ向けて車を走らせる。
そして、小樽市街地に入った後、目的地に到着。
無防備にも門が開いちゃってるんですけど、そっから入っていいんですかね?(実際は、ここからは入ってません)
えーと、わいが小樽で一番行きたかった場所。それがここ、「小樽市総合博物館」である。
北海道の歴史や自然、鉄道をはじめとした交通、科学などに関する展示を行う博物館といっているが、実質ほぼ鉄道の博物館として機能してますw
というのも、今回訪れたこの場所は、もともとは旧小樽交通記念館として運営されており、2006年3月に閉館された後、2007年7月に、リニューアルオープンしたという経緯がある。
さらに歴史をさかのぼると、「小樽市総合博物館」自体の歴史は、1956年に、色内にある旧日本郵船小樽支店を利用し設立された博物館としてオープンし、そこでは、美術を含む人文・自然を対象とした展示がなされていた。
その後、旧国鉄が、「北海道鉄道記念館」をオープンし、紆余曲折を経て、現在の形となっている。
現在の「小樽市総合博物館」がある場所は、北海道の鉄道発祥の地である旧手宮線・手宮駅の構内敷地5.8haを利用している。
さて、ここからは展示車両の一部について、写真を交えながら、ちょこっと紹介していくことにします。
動態展示されている「アイアンホース」号。アメリカ大陸の各地で活躍後、1993年にこの日本にやってきた。
客車を牽いて、博物館の敷地内を往復している(ただし、冬季運休)。なお、客車には無料で乗車することができるので、是非とも乗ってみてはいかがだろうか?
当時、わいも、乗ってきましたよ。
戦前生まれの機関車の一つである国鉄C12形蒸気機関車。
軸重制限のある簡易線規格路線用の小型軽量な機関車として設計されたタンク式蒸気機関車である。
現在、真岡鉄道で動態保存されているほか、日本各所で静態保存されている姿を見ることができる。なぜかわからないけど、中部地方各所に本形式の静態保存機関車が多い。
国鉄DD16型電気機関車。
ローカル線に残存した蒸気機関車の置き換え用として登場した機関車である。
なお、投入線区の都合上、旅客用には供されず、貨物用機関車として活躍していた。
後年、一部のDD16はラッセル車に使用できるような改造を受けており、近年まで現役で活躍していた。
ちなみに、現在は、JR東日本で1両のみ残存しているレアな機関車となってしまった。
あ、ここでいうDDって、わいの周りにいる一部界隈に相当する「誰でも大好き」のことじゃないからね。
すっかり色あせて、かつ錆がだいぶ目だってしまっているが、昭和時代~平成初期の北海道の鉄路を支えたキハ58系列の北海道バージョン、キハ56形・キハ27形も片隅で保存されている。
キハ56形・キハ27形は、当時の運輸事情などにより、キハ58・28形に先立って製造されており、キハ58系列シリーズでは、先駆者的存在でもあった。
これが、キハ56形・キハ27形の車内である。床が板張りとなっているのが特徴的だが、理由は後述にて示す。(キハ22のところに書いてます)
冷房装置は取り付けられることがなく、天井には扇風機が等間隔に並んでいるのが特徴となっている。
余談だが、製造から半世紀以上たっているのと屋外保存という関係もあり、車内の座席などが若干へたり気味になっている。
座席に座って、千早を撮影する。
北海道の国鉄車両に標準装備されている二重窓ももちろん装備しています。
上の網棚も本物の「網」棚ですね。
変わって、キロ26形の車内。こちらはグリーン車の車内である。
国鉄時代によくあった赤い簡易リクライニングシートがずらりと並んでいる。今では、フリーストップ式リクライニングシートが主流なだけに、古さは否めないが、当時はこれでも上級のシートであったのだ。
シートの背面にはテーブルが設置されていないが、フットレストは標準装備であった。
車内中ほどにでっかいモニターが置いてあるが、これは博物館にきてから設置されたものだと思われる。おそらく、ここで定期的にビデオ放映などしていると思われるが、遠征当時は特に何もやっていなかった。
モニターがあるところからキロ26形の車内を写す。
陽が差しているのもあり、こちらのほうがわかりやすいかもしれない。
座席のひじ掛け横には収納式の小さいテーブルがある。ひじ掛けの下にリクライニング用の爪がある。
ちなみに、グリーン車の床は板張りではなく、リノリウム張りとなっている。
グリーン車の中でも千早を撮る。
遠征当時はだいぶ色あせと錆が目立ってきたキロ26 107であるが、その後さすがに修繕作業が行われていることであろう・・・。
キハ56形の先頭部の貫通扉を閉めてみた図。この後、きちんと開けた状態に戻しました。
遠征当時、修繕作業真っ最中であったED75型電気機関車501号機。
ED75型電気機関車は、東北地方で活躍しているイメージが強いが、一部は九州や北海道でも活躍していた。
ちなみに、北海道で活躍していたのはこの501号機が唯一であった。
というのも、この501号機は、北海道交流電化用の試作機としての位置づけであり、様々な特殊装備を施していたことにより、量産化に至らなかった経緯がある。
試験運用を経た後は、諸般の事情により、岩見沢~旭川間の貨物列車牽引専用として充当されていたが、JR移行前に廃車となり、その後小樽市総合博物館にやってきて、2010年に準鉄道記念物指定を受けている。
だいぶ錆がでてきて、ボロボロになっているキハユニ25 1。
寒冷地・極寒地向けの郵便荷物合造車で、室内配置は前位から運転室・荷物室・郵便室・客室となっている。
国鉄時代における電車では、荷物車と旅客用車の合造車は、ほぼ存在しなかったが、気動車や客車では、このキハユニ25のように、郵便荷物合造車が製造されるケースが見受けられた。
遠征当時は、修繕作業に向けて、いろいろと準備がなされていたので、その後きれいになったことだろう。
車内には、修繕作業用の道具が積まれており、その区画には当然立ち入りできなかった。
キハユニ25の後位側の様子。座席のモケットの色あせ具合が半端ない。
天井の照明自体もかなり古い世代であるような感じがする。
キハ20形の北海道仕様ともいえるキハ22形。一部は東北地方でも活躍した。
酷寒地向けの耐寒仕様車として設計されており、客室窓は二重窓を採用している。このキハ22形こそ、国鉄時代における北海道仕様のベースとなった列車であり、北海道の鉄道史を語る上では、絶対に外すことのできない存在なのだ。
平成初期まで道内の国鉄路線およびJR北海道の各線で活躍していた。普通列車のみならず、急行列車でも本形式が充当されるケースが多く、その列車に対して、「遜色急行」と呼ばれていたそうである(本系列はセミクロスシートを採用していたことから)。
当時は、塗装作業中であったが、車内に入れるようなので、車内に入ってみた。
車内は、これぞ国鉄の近郊型気動車といった感じである。しかも、車内の床が板張りなのがポイント高い。そして、網棚も、本物の「網」棚である。
ちなみに、車内の床が板張りなのは、投入線区事情によるもので、雪が融けて濡れた時の滑りにくさや、雪靴・雪下駄の滑り止め金具(スパイクなど)への対策のためによるものである。
最新型の気動車と比べると、居住性・乗り心地の点では劣ってしまうが、旅情を感じるなら(?)、断然古い気動車のほうがより旅情を感じてしまうのは気のせいだろうか。
DE10型ディーゼル機関車。ローカル線の貨客列車牽引や入換用途を主目的として開発された機関車である。
この写真の500番台は、構内入換・貨物列車に用いるためSGを非搭載としている。なお、JRに転換される前に500番台の車両はすべて廃車された。
後ろには国鉄時代に活躍した貨車が5両ほど連結されている。
救援車であるスエ78(中間の客車)とオエ61(手前にある客車)を写したもの。
前者は、70系客車、後者は60系客車のグループに属している。
救援車とは、鉄道事業者が使う事業用鉄道車両の一種であり、用途は、災害、鉄道事故や除雪現場などに出動し、枕木等の応急復旧資材や工作機械の保管・運搬、作業員の休憩所代わりなどである。
余談ではあるが、わいの場合、旧型客車を簡単に見分けるほどの知識がないので、よくわからないが、かなり奥深い世界らしい・・・。
オエ61の車内だったかな・・・。
椅子やストーブなどが設置されており、作業員の休憩所代わりに利用されていたことがうかがえる。
確か、こちらがスエ78の車内だった気がする。
救援の際に必要な工具類などが机上に置いてあったり、壁につるされていたりしていた。
さっきの写真のところから振り返るとこんな感じ。
こちらも、救援の際に必要な工具類などが机上に置いてあったり、壁につるされていたりしていた。
こちらは国鉄ソ30形貨車。
かつて日本国有鉄道(国鉄)に在籍した事故救援用操重車(事業用貨車)であり、鉄道車両の脱線事故や転覆事故の復旧に活躍した。そのため、回転式キャブとクレーンを装備している。また、クレーンのブームを収めるための控車である長物車を伴っている。
全部で7両製造されたが、JR承継前にすべて廃車となり、唯一保存されているソ30形貨車がこちらのソ34である。
同車は岩見沢駅に常備されており、道内で活躍していた。
振り返って、小高い丘から、丘の下にある展示車両や博物館の外観の写真を撮る。
わい。ただいま仕事中・・・じゃありませんw(アイマス現場で、わいに実際にあったことある人しか通じないネタw)
ただのマネキンですね。はい。
てか、この写真どこで撮ったっけw
丘から、北海道の鉄道史に欠かせない車両たちを俯瞰撮影してみる。
こちらは、特急型気動車の先駆けとなったキハ80系気動車である。
ボンネット型の先頭車を擁するキハ81形のグループと写真にあるキハ82形のグループが存在している。
なお、道内のみならず、高度経済成長期以降の日本各地で活躍していた特急型気動車である。
道内では、6つの特急列車(おおぞら・おおとり・北海・北斗・オホーツク・エルム)に充当されていたが、国鉄末期までに後継のキハ183系気動車に置き換えられる形で、運用を終了した。
写真のキハ82形はトップナンバーのキハ82 1で、2010年に準鉄道記念物に指定されている。
キハ82形の車内の様子。
リクライニングすらしないクロスシートであったが、背もたれを押すと、座席が回転することができる仕組みになっている。
隣のキシ80形の車内の様子。休憩スペースとして活用していることもあり、車内が大きく改造されている。
現役当時は、奥側が客席スペースであったと推測される。
蒸気機関車の後ろ側には、青色の旧型客車が何両か連結されていました。
北海道を支えた電気機関車・蒸気機関車・特急型気動車の並びを青空の下で撮影する。
北海道を支えた立役者をこのように撮影できてうれしかった。
閑話休題をかねて、ここから、博物館の片隅に展示されている車を見ていくことにしよう。
まずは、スバル・360 K111型。高度経済成長期に製造された軽自動車である。
この車は、航空機技術を応用した超軽量構造を採用し、また限られたスペースで必要な居住性を確保するための斬新なアイデアが数多く導入された。
その結果、量産型の軽自動車としては史上初めて大人4人の乗車を可能とするとともに、当時の水準を超える走行性能を実現したのである。
かくして、比較的廉価で、十分な実用性を備えたこのスバル・360 K111型は、1960年代の日本において一般大衆に広く歓迎されて、モータリゼーション推進の一翼を担った。
こうした経緯から、「マイカー」という言葉を誕生・定着させ、日本の自動車史のみならず戦後日本の歴史を語る上で欠かすことのできない「名車」と評価されている。
昔の映画や、アニメにもこのスバル・360 K111型が登場しており、なんとなく一度くらいはお目にかかったことはあるのではなかろうか?
余談だが、この写真の右側に写っている車は「トヨタ・カローラ DX-1100」である。
次は、日産・ダットサン サニー 1000DX。
サニーは日産の最小排気量クラスを担う主力車種として、高度経済成長期からバブル経済期までのベストセラーカーとなった。そして、日本の大衆車の中でもトヨタ・カローラと双璧をなす存在でもあった。
サニー自体は、高度成長期から2004年まで長い期間にわたって製造された大衆車であったが、小樽市総合博物館に展示されているこの車両は、サニーの創成期に製造された車両である。
展示車両を見る限り、昔の映像でよく出てくる車両でもあることから、なんとなく一度くらいは見たことがあるのではないだろうか?
最後は、ル・マン24時間レースへの参戦のために製作されたプロトタイプレーシングカーのマツダ・787Bである。
この写真にあるマツダ・787B 55号車は、1991年のル・マン24時間レースにおいて総合優勝を果たした立役者で、同レースにおいて、日本メーカーにとって初かつ現在においても唯一の総合優勝を果たした名車である。
と、解説したものの、この小樽市総合博物館にあった55号車は、実は予備車であるw
予備車も、本物の55号車とそっくりに作られているので、見分けるのは難しい。この予備車は、1996年から小樽市総合博物館の片隅で展示され始めた。
余談だが、実際に、ル・マン24時間レースにおいて総合優勝を果たしたマツダ・787B 55号車は、平時は、広島県のマツダ本社内にあるマツダミュージアムで動態保存されている。
ちなみに、2015年11月まで展示されていたが、その後、マツダ本社に返還されており、今では小樽市総合博物館で見ることができない。
閑話休題を挟んだところで、今度は機関庫周辺の車両を見学してみることにした。
まずは、国鉄キ700形貨車を見学する。
戦前に輸入された後に国産化された、鉄道省(後、日本国有鉄道)の事業用貨車(広幅雪かき車)である。
広幅雪かき車とは、駅や操車場構内を除雪するための車両を指す。現在では、多雪地帯において、雪かきの労力を削減するために、駅構内や操車場においては、消雪パイプのようなものを装備していたり、ラッセル車・除雪用モーターカーよる除雪作業を行っているが、戦前にそういった技術はなく、こういった雪かき車が活躍していた。
北海道で活躍していたほか、東北地方の奥羽本線や新潟地区でも活躍していたが、ラッセル車・除雪用モーターカーの台頭により、活躍の場を追われ、平成初期にすべての車両が引退となった。
こちらも同じく国鉄キ700形貨車である。
先ほどの写真とは形が若干異なるが、同じ形式である。
機関庫内に目を移すと、国鉄7150形蒸気機関車がいたので撮影。
この機関車は国産機関車の第二号である。ちなみに、「大勝号」(日本が日清戦争に勝利したことに由来)という愛称をもち、基本的に小樽周辺で活躍していた。
この機関車は、現存する日本最古の機関車であり、準鉄道記念物を経て、鉄道記念物に指定されている貴重な存在である。
先頭部に「30」の表記があるが、これは、北海道炭礦鉄道時代においてH形(30)であったことに由来している。
雄武で写真として見たあのキハ03の実車とここで出会うことになるとは・・・
キハ03系は、キハ01系シリーズの一つに数えられる車両で、北海道向けの閑散ローカル線の収支改善と増発のため、バスの設計を鉄道車両に応用して製造されたものである。
北海道向けに製造されたことから、酷寒地仕様となっており、二重窓になったほか、キハ02系の装備に加え、スノープラウ、ホイッスルカバー、それにエンジンカバー等が装備された。
いわゆる「レールバス」の先駆け的存在であったものの、日本の輸送事情にはそぐわず、また設計的にも通常の鉄道車両より耐用年数の面においても低く設計されていたため、高度経済成長期の真っ只中にすべて廃車されてしまった。
国鉄では、唯一のレールバスであったということから、廃車後しばらくしてから、この小樽の地で保存され、2010年に準鉄道記念物指定を受けた。
その後、富士重工業が、レールバスをいくらか製造してきたものの、各種問題点が浮き彫りになり、今ではレールバスそのものがすべて引退しているほか、富士重工業自体も鉄道車両製造部門からの撤退をしてしまったため、今後、レールバス自体が日の目を見ることはないのかもしれない。
機関庫内にあったことから、暗くなってしまっているが、キハ03系の車内がこちら。
軽量化を重視していたことから、全体的に簡素な造りとなっており、乗り心地や、座席の座り心地は、あまりよくなかったそうである。
感覚的にいえば、貨車に乗っているようなイメージだそうだ。
先ほども書いたが、この小樽市総合博物館は、旧手宮線・手宮駅の構内敷地5.8haを利用している。
旧手宮線・手宮駅の構内敷地は、国指定重要文化財「旧手宮鉄道施設」として指定を受けており、このような看板が設置されているのだ。
入口で見た除雪車であるDD14型ディーゼル機関車とDD15型ディーゼル機関車を撮影する。
前者はロータリー式除雪車、後者はラッセル式除雪車となっている。
どちらも、いまだに現役として活躍しており、少数精鋭ながらも、多雪地帯で除雪車として活躍している。
さて、写真を交えながら、ちょこっと紹介していくどころか、だいぶ時間を割いてしまった・・・。
なんだかんだで2時間半近く近く滞在した後、小樽市総合博物館の近辺にある手宮洞窟へ足を運んだ。
手宮洞窟は、江戸時代末期に、小田原から、朝里地区のニシン番屋の建設に来ていた、石工の長兵衛によって発見された洞窟である。手宮洞窟周辺は、小樽軟石と呼ばれる凝灰岩(ぎょうかいがん)が露出しているところで、長兵衛は建築用の石を捜している途中で偶然洞くつ内の岩壁にさまざまな文様が刻まれていることを発見したそうである。
手宮洞窟に描かれている彫刻は、発掘調査により、今からおよそ1,600年前頃の続縄文(ぞくじょうもん)時代中頃〜後半の時代で、本州の弥生(やよい)時代の終わり頃から古墳時代の初めの時期にできたものだと伝えられている。
北海道の続縄文(ぞくじょうもん)時代中頃〜後半の時代の文化を知ることができる貴重な場所なので、小樽に寄った際は、是非とも訪れてみてはいかがだろうか?
入場料も100円ですから、ワンコインでお得です。
遠征当時は、ほかに人もいないので、まじまじと彫刻を見ている千早ちゃんに・・・
おやおや、いったい72をしたんですかねえ?
この後、千早に、「馬鹿」といわれましたが、千早に言われるなら大歓迎やでw
手宮洞窟を見学した後は、小樽運河沿いを歩いてみました。
運河沿いは、現代と近代のコラボレーションのような世界が広がっていました。
橋の上から、運河を撮影する。
運河沿いを歩いた後は、小樽市総合博物館の別館(運河館)へ行きました。
こちらでは、小樽の歴史や文化を中心とした展示がされています。
少し、タイムスリップした気分ですね。
屋外では、こまやお手玉、けん玉などが体験できるゾーンがありました。
わいも、小学校の時はやってましたねー。
輪投げやフラフープなどもありました。ちょっとやってみましたが、もうセンスなさすぎで残念感しか漂いませんでしたとさw
屋内には土器などの展示もありました。北海道で土器を見るのはこれが初めてだったりw
小樽の最後は風呂にも入りたいと思い、スーパー銭湯へ。飯はそこで食べましたが・・・。
本当は、本場の海鮮丼が食べたかったのですが、あいにく定休日やランチタイム終了の憂き目にあった結果がこれでした・・・。
まあ、この遠征で唯一まともに飯を食った気がするよ(道内基準)・・・。朝は札幌市内で、コンビニパンだったしね・・・。初日に至っては、岩見沢SAの軽食スナック以外何も食ってなかったしw
壱拾伍:北海道の旅の余韻と現実世界への転落(帰宅路)
なんだかんだで楽しかった今回の遠征も、まもなく終わりの時間が・・・。
しかも、当初予定の飛行機より1本繰り上げたこともあり、残り時間はあまりない。
ということで、急いで新千歳空港に戻るべく、小樽を後にする。
一応、小樽中心部のルート図を載せる。今回寄った小樽市総合博物館周辺の位置関係が分かればということでw
冒頭のルート図を再掲。復路は札樽自動車道・道央自動車道経由で新千歳空港へと戻った。
札幌市街を颯爽と過ぎた後、千歳ICで、高速を降り、ガソリンを給油後、レンタカー屋に車を返して、南千歳駅から新千歳空港までの1区間を電車で移動して新千歳空港についた。
飛行機の出発時間まであまり余裕がない中でのターミナル到着であった。
北海道遠征の結果、制覇エリア497エリアまで到達(一部黄色制覇あり)。北東エリアの懸案であった、北海道内32エリアを全部制覇できて大満足であった。
帰りの道中で、いったん休憩した時の一コマ。
ここで面白いことを一つ言います。
「輪厚ってかいて、わっつって読むんだって? Whats?」
ありがとうございました。
千早はクスクス笑いそうだけど、ほかの人にとっては・・・
特急スーパーサムイ
といわれかねない事案だね。これは。
レンタカー屋に到着した直後に撮影したもの。
走行距離が2日間で1484.6kmという数字をたたき出した。なお、1日目で1000km以上移動している。
夕飯は、飛行機の中で空弁をいただくことに。意外に人気なのか種類があまりなかったわけですが、なんとかありつけました。
飛行機の離陸後にいただき、その後、羽田空港につくまで寝てました。
羽田空港到着後、荷物を引き取った後、京急・山手線・地元電車を乗り継ぎ、帰宅した。
というわけで、過去のアイモバ遠征記録第壱拾壱弾はおわりでございます。
最後が、だいぶマニアックな内容になっちゃいましたが、ご容赦頂ければ・・・。
今回は北海道内を2日間にわたってぐるっと遠征してまいりました。この遠征により、わいの本格的なアイモバ廃人への道がまた一歩近づいた(?)といっても過言ではないと思います。
今回はエリア制覇後を除いて観光要素が全くありませんでしたが、ただ車でドライブするだけでも全然いけるほうですからそれなりに楽しかったと思います。もう、アイモバも終わっちゃってますから、今度行くときはまったりと観光をしていきたいかなあと思います。
あとは、ダート道道巡りもしたいですしね・・・。
さて、次回のアイモバ遠征記録第壱拾弐弾の予告ですが、ついに東京の見果てぬ地へ向かいます。今度の舞台はなんと、伊豆諸島です。小笠原諸島じゃないんですよねー。残念なことに。
主目的は、伊豆諸島の大島/新島エリア制覇が目的ですが、それにプラスして中央エリアの空白地帯である、伊豆の各エリアの制覇もついでにやっちゃいます。
今度の遠征は、毎度おなじみアイモバタクシードライバーこと、NisPとともに、NisTAXIで遠征にいっちゃいますよ。
なお、今回の遠征をもって、原則大長編になることはないと思います。あとの遠征はだいたい2分割か単発で終わる予定ですよ。たぶんね・・・。
ではでは、ご覧頂きましてありがとうございました。