【残り1エリア!感動のラスト?】アイモバ三宅島紀行【2】

こんにちは。北陸の食パンです。

さて、今回は、いまだに備忘録の続きを書く始末ではございますが、過去のアイモバ遠征第拾参弾の続きということで、アイモバ三宅島アタック編(2013年11月24日出発、2013年11月25日帰着)の後編をお送りしますよ。

前回は、三宅島の火山活動の爪痕をたくさん見てきましたが、今回はどのような展開になるのでしょうか?

前回記事見てない方はこちらをみてからこの記事を読みましょうw

ではでは、本編いきますよ。

参:海岸の景色と神秘的な景色を求めて(東京 三宅島エリア)

弐ではどちらかというと、火山活動の爪痕を見るためのレポだったが、ここでは視点を変えて海や神秘的な景色の方を見るためのレポをお送りしたい。なお、ここでも構成等の都合上火山活動の爪痕も含まれるがそこはご了承いただければ・・・。

まずは、前回のルート図を再掲。

島役所跡を見た後は、大久保浜を見に行った。

三宅島随一のサマーレジャースポット大久保浜を眺めた図がこちら。

全長2kmにもわたるブラックサンドビーチで、夏場は海水浴やダイビング、サーフィンなどで賑わう。

一応、三宅島遠征全体のルート図を再掲する。

この後、伊豆岬灯台を経由し、錆ヶ浜港方面へと向かう。

伊豆岬灯台周辺からうっすらではあるが、神津島を見ることができた。

そして、先にある低めの白い灯台が、伊豆岬灯台である。

伊豆岬灯台周辺においても、地層を見ることができる。

ここ以外にもいくつか見られる場所はある(前回記事の三池港周辺など)が、三宅島の中で地層を見ていて楽しいのは間違いなくこの伊豆岬灯台周辺だと勝手に思っている。

展望台の下も地層が見られる。おそらく道路がなければ、こんなにはっきり見られなかったであろうと思う。

でも、海沿いを歩けば、普通に見られますけどねw

伊豆岬のジオスポット案内板がこちら。この伊豆岬の地層は、過去1万年の噴火の歴史を地層から読み解ける貴重な場所となっている。

過去1万年の噴火の歴史を物語る地層の中には、新島の向山噴火(886年)や神津島の天上山噴火(838年)の火山灰も見つかっているとのこと。

道路下に見える不思議な曲線を描く独特の地層は、約2500年前の八丁平噴火時のものらしい。

「火山豆石(かざんまめいし)」と呼ばれる、噴煙の中で火山灰と水蒸気が凝結し丸くなって落ちてきた石によって造られた地層で、長年の風化によって、複雑な模様を造り出しているとのこと。

時間があまりない状況ではあるが、しばし伊豆岬灯台周辺の地層を眺めてしまった・・・。

こちらが、伊豆岬灯台である。伊豆諸島最古といわれる歴史ある灯台で、1909年に建てられた。のち、1980年に改築が行われている。

灯台は高さ10メートルの石造り。保存灯台(Dランク)に指定されているとのこと。

道路よりさらに下のほうを見ると、さらに昔の地層を見ることができる。

奥に見える山は、今もなお火山活動を続けている雄山だ。

伊豆岬灯台と噴火の歴史の証人である地層を絡めて撮影したもの。

海岸寄りは、このように大きな段差となっているので、上り下りには十分注意されたい。

なお、三宅島において、夕日を眺めたいなら、是非とも伊豆岬灯台で見ることをお勧めする。


伊豆岬灯台を見学した後は、再び阿古地区に向かって車を走らせる。

都道212号を走っている途中に、展望スペースを見つけたので、そこに車を停める。

そこには、阿古集落跡の説明板がたっていた。

1983年の噴火で壊滅的被害を受けたのが、阿古集落だったのだ。

かつての阿古集落の写真が横にあった。

観光と漁業でにぎわったということから、さぞ昔は三宅島の中でも活気があったのだろうと思われる。

それが、今は・・・

1983年の噴火の際の溶岩流により、阿古集落のほとんどが飲み込まれてしまったのだ。

写真中央に見える遊歩道は、後程行くことになるので、そのときに詳細を明らかにしたい。

そして、奥に見える島は大野原島である。

少し視点を変えると、溶岩流の被害を免れた集落があるのがおわかりいただけるだろうか?

こうしてみると、溶岩流に飲み込まれた集落は、(衣食住の地としてという意味で)もう人が戻ることはないということが、いやでも痛感させられてしまう。

奥に見える島は神津島であるが、神津島と三宅島を直接結ぶ交通手段は存在しない。

このため、伊豆諸島の北部と南部の境界線が、神津島と三宅島であり、前者は北部の最南端、後者は南部の最北端ということになるわけだ。

阿古集落跡が見えるところで千早を撮る。

そして、千早と三宅島について語らう(という設定)

この後、訪れたところを示すために、ルート図の拡大図を再掲する。

この後訪れたところをリストにすると

  1. 阿古集落跡(このルート図では見切れているが、メガネ岩の少し北側にある)
  2. メガネ岩
  3. 富賀神社(富賀浜)
  4. 新澪池跡
  5. 大路池
  6. ふるさとの湯

の順に訪れている。

ということで、訪れた地の様子をこれから見ていくことにしよう。

阿古集落跡付近から眺めた図がこちら。このあたりは夕景浜と呼ばれているらしい。

切り立った断崖の向こうに、まれに東海汽船の船が入港する伊ヶ谷港がある。

では、これから、先ほど都道212号線から見た、阿古集落跡を実際に歩いてみることにしよう。

まずは、千早と記念撮影を忘れない。

千早の後ろにある建物はいったい何だろうか?

この建物は、旧阿古小学校・阿古中学校である。この周辺にあったおよそ340世帯の民家は跡形もなく溶岩流に飲み込まれてしまったが、被災後、阿古小学校・阿古中学校の校舎はそのまま残されることとなり、1983年の噴火による被害のすさまじさを語る貴重な建物となっている。

ここに訪れたのは、2013年11月だから、ちょうど30年前ということになる。

旧阿古小学校・阿古中学校は、完全なる廃墟なので、中に立ち入ることはできない。

写真の右側を見ると、溶岩流が固まったものが、校舎とほぼ同じ高さにまでなっていることがおわかりいただけるだろうか?

ちなみに、溶岩流に飲み込まれた面積はおよそ19haで、当時の集落の大半が消失しました。溶岩流の厚みは10メートルにも達し、2階建ての校舎がすっぽり埋もれるほどの高さだそうである。

溶岩流の温度は、灼熱の1,000度。200日が経過しても、分厚い溶岩の内部は、500℃もあったとのこと。わいにとっては、未知の世界であるが、人間が巻き込まれたら、跡形もなく焼けてしまうのではないだろうか・・・。

校舎裏手には、溶岩流の跡の一部が駐車スペースとなっていた。

駐車スペースにするにあたっても、相当な労力を費やしたのではないかと思われる。

なお、写真で見る限り、奥から校舎内にいけそうな感じがするが、危ないので絶対に立ち入らないように!

雄山のふもとでも垣間見えたが、溶岩流の上に、新たに植物が根を張って、成長しているさまは、我々が想像している以上に、強い植物の姿を見ているように思った。

もちろん、ジオスポットの解説板も設置されている。

1983年の噴火では、先ほど立ち寄った七島展望台(リンクをクリックすると前編に飛びます)付近に生じた割れ目から噴火し、この阿古集落、錆ヶ浜港、そして後程立ち寄る粟辺地区の3方向にむかって、溶岩流が流れていった。

錆ヶ浜港方面に関しては、結果的に途中で溶岩流が止まり、港周辺への被害は免れたが、ほかの2地区については、海岸まで溶岩流が流れる結果となり、特に阿古集落については甚大な被害が出たのである。

こちらが、先ほど都道212号線から見えた遊歩道で、「火山体験遊歩道」という名前がついている。

2007年に完成した遊歩道で、集落を飲み込んだ溶岩流の上に造られた遊歩道である。

下から山方面を眺めた図がこちら。

あたり一面、ごつごつとした溶岩に覆われてしまっている。ちなみに、これらの溶岩は玄武岩系のものらしい。

「火山体験遊歩道」周辺には、多数の解説板が立っている。

校舎に近いこの解説板は、噴火当時の阿古中学校の様子について書かれている。

もう少し先に行くと、噴火当時の阿古小学校の様子について書かれている解説板があった。

さて、1983年の噴火で最も恐ろしいのは、これが突然の噴火であったことと、噴火から2時間後には、集落に溶岩流が流れ込んだということにあった。このため、住民は家財道具を置いたまま、命からがら坪田方面へ避難せざるをえなくなったそうだ。

幸い、この噴火による死傷者は無く、島民の結束の強さを示すことにつながったようだ。

校舎に押し寄せた溶岩流。このすさまじさを間近に見ることができる。

溶岩流は2階の高さにまで及んだ。中も、噴火当時そのままになっているようである。

ちなみに、写真に写っているのは3階である。

遊歩道が右に折れるところで、何かしら建物があったように思えるが、いったい何の建物だったのだろうか?

屋根の鉄骨が、溶岩流の熱などで曲がっている様子が見てとれる。

こちらは、体育館があったところのようである。体育館内にまで溶岩流が襲ったほか、溶岩流の影響で、屋根も破壊されてしまっている。

別角度から校舎内に向けて撮影してみる。

溶岩流は、阿古小学校・阿古中学校の校舎がせき止める形となったため、ここから先、海方向へはあまり被害がなかったようである。

溶岩に包まれた一帯をまっすぐ貫くように敷設された遊歩道。絵になる風景だ。

分岐路付近の解説板を撮影。主に溶岩のメカニズムについて解説されている。

1983年に阿古を覆った溶岩は、表面がトゲトゲしていて多孔質な一方で、内部は均質に固まっているのが特徴であり、このような溶岩を「アア溶岩」と呼ぶそうだ。表面のトゲトゲは、溶岩が空気に触れて早く固まるために生じるものとのことである。

基本的に、溶岩の上には、ほとんど植物は育ちませんが、このあたりでは、ハチジョウイタドリという多年草が所々に芽を出しているらしい。この植物は根が長く、溶岩の下にある土まで届くため、このような環境下でも育つのだそう。植物の世界も奥深いと痛感した次第だ。

なお、ハチジョウイタドリが枯れると、その場所に土ができ、少しずつ緑が再生されるとのことである。100年後はきっとまた違う風景になっているであろうが、またこの場所に溶岩流が襲ってくる可能性もゼロではないので、緑が復活するかどうかは、今後の火山活動の動向次第になるであろう。

遊歩道の中腹から、阿古小学校・阿古中学校の校舎、そして遠くに見える神津島を望む。

千早との記念撮影も忘れず。

実際、わいが来たときはだれもいなかったので、じっくりと遊歩道を歩くことができた。

遊歩道の終点近くにある解説板には、この溶岩流に埋もれてしまった阿古集落のことについて書かれている。

遊歩道終点付近から海方向に向かって撮影したもの。

あたり一面、溶岩流に覆われているのが、改めておわかりいただけるだろうか?

遊歩道終点にある解説板。阿古小学校・阿古中学校の校舎側の遊歩道起点に書いてある内容と似ているようで非なるものである。

帰りも、遊歩道を歩いて、阿古小学校・阿古中学校の校舎まで戻りました。


火山体験遊歩道を歩いた後は、今崎海岸・メガネ岩方向へと向かう。

車を停めて、今崎海岸の様子を撮影する。この写真と次の写真を見ると分かる通り、一帯が黒い岩に覆われていることからも分かる通り、今崎海岸は、噴火により流れ出た溶岩で形成されている。

史実によると、今崎海岸を形作ったのは、1643年(寛永20年)の噴火だそうで、当時この地にあった集落が甚大な被害を受けたという記録が残っている。

この写真のように、今崎海岸の周辺は、樹木が無く、見渡す限り枯れ木が広がっているのが、おわかりいただけるだろうか?

恐らく、森林があった場所が、丸ごと溶岩流に飲み込まれたのであろう。噴火の恐ろしさを改めて思い知らされた瞬間である。まあ、早朝から爪痕ばかり見てきているわけだけれども・・・。

今崎海岸周辺から、夕景浜・伊ヶ谷港方面を望む。

今崎海岸のジオスポット解説板を撮影する。先ほど申した通り、一帯は、1643年の噴火で被害を受けている。1643年といえば、ときは江戸幕府の3代目将軍徳川家光の時代である。鎖国してから4年経って、噴火したわけだ。

ちなみに、溶岩流の被害が広範囲に渡ってできた地形を「溶岩扇状地」と呼ぶらしい。

溶岩流の影響で、不毛の地となったため、異様なまでに見通しのよい道が続く。

また、先ほども申した通り、この一帯が溶岩流に飲み込まれたのは、江戸時代の話であるが、今なお、まともに植物は育たないようだ。つまり、根を張るだけの土や養分が無いということなのだろう。

メガネ岩を見る前に錆ヶ浜港方面に向かって撮影してみる。

しかし、この一帯は、釣り客や観光客がポイ捨てしたと思われるごみが多数散乱しており、見ていて気分が悪くなったのはここだけの話である。

逆を見てもごみだらけ。三宅島の残念な部分を一気に見てしまった感じがした。

さて、気を取り直して、メガネ岩を見に行くことにしますか。

ジオスポット メガネ岩の解説板。

1643年の噴火で形成された今崎海岸であるが、長年波によって浸食され、「海食洞」が作られた。その「海食洞」が2つ並んだ姿から、メガネ岩と名付けられたそうである。

かつては、眼鏡のように、穴が2つ空いていたそうであるが、1959年の伊勢湾台風により、片方が崩壊してしまったらしい。

なお、メガネ岩は、先の伊豆岬灯台と並び、三宅島の夕日を眺めることができるスポットでもある。

こちらが、実際のメガネ岩である。現在は、左側のみ「海食洞」の形が残っているが、右側は前述の通り、1959年の伊勢湾台風により崩壊してしまっている。

崩壊してしまったほうを撮影する。走り幅跳びで、渡ろうと思えば渡れなくなさそうに思えるが、下に落ちたら危険なのでやめておこう。

もし、やるんだったら自己責任でどうぞ。

メガネ岩をバックに千早を撮る。

さらにもう一枚。こっちのほうがいいかもw


メガネ岩を見学した後は、南下し、富賀浜方面へと向かう。

富賀浜のジオスポット解説板。

ここは、伊豆岬灯台周辺や今崎海岸周辺とは違い、切り立った崖になっているのが特徴的な海岸となっている。

また、このあたりの海底には、テーブルサンゴの群落が広がっているようなので、ダイビングしてみるのもいいかもしれない。

わいはまだダイビングやったことないけれども、一度ぐらいは体験したいなあ。ちなみに、昔は水泳とかやってたので、泳げはしますが、潜りについてはど素人です。はい。

早速、海方面に降りてみる。このあたりは、伊豆岬灯台周辺でみた地層と似たような感じがする。

高台から降りて、裏に回ると、写真にあるように、美しい地層が間近に見られる。

もう少し裏側へと進むと、さきほどのジオスポット解説板で見たやつと同じものを発見する。

これは、「爆発角礫岩」と呼ぶそうで、この近くの海岸線もしくは海底で起きたマグマ水蒸気爆発の噴火によって形成されたそうである。


富賀浜周辺を散策した後は、新澪池跡周辺を見に行った。

新澪池跡に到着する。写真の奥側をよく見ると、溶岩流の跡があるのがおわかりいただけるだろうか?

先ほど巡った、阿古集落跡と同様に、1983年の噴火で大きな被害を受けた粟辺地区に位置するのが、この新澪池跡である。

1983年の噴火の際、このあたりにある火口(写真では見えないが、奥側にあるらしい。)からも噴火したそうである。

視点を変えて撮影する。こちらの写真だと、溶岩流が実際にあったということがおわかりいただけることであろう。

左下に見えるのが、例の新澪池跡になる。

新澪池跡と新鼻新山のジオスポット解説板である。

どちらも1983年の噴火により発生したものである。新たなスコリア丘が生まれる一方で、美しい池は一瞬にしてなくなるという、火山活動の恐ろしさを垣間見ているかのようである。

ここに新澪池があった。1763年の噴火によりできた火口湖で、かつては水面が七色に変化する美しい池として親しまれてきたが、1983年の噴火による溶岩流が池に入り、池の水と溶岩が接触。そして、激しい水蒸気爆発(マグマ水蒸気爆発)の後に、池の水は無くなってしまった。

最初の噴火から半日も経たない間の出来事であった。

かつての湖底には、ススキが一面に広がっており、水があった場所と池の周りの境界がよくわかる。池の底は、時期によってぬかるんでいたり、乾燥していたりしているそうだ。

奥に見える突起のようなものが、新鼻新山である。1983年の噴火でできたスコリア丘で、「一夜でできた山」として、三宅島では有名なスポットとなっている。

1983年の噴火の際、このあたりで激しい水蒸気爆発が繰り返し発生し、大量の溶岩や火山灰が噴出された結果、この新鼻新山が形成されたそうである。

この遠征の際は、この写真のように遠目越しに撮影したのだが、実際には、新鼻新山に立ち入ることができる。当時は、藪や柵があるために入れないかと思っていたので、近づくことをあきらめたのだが、帰ってから入れることを知った次第だorz

次回、三宅島を訪れた際に是非とも再訪してみたいところである。

新澪池跡を見下ろすようにして撮影する。実は、新澪池の近くまで行けるらしいとのこと。展望台近くの藪をかき分けて下るらしい。今度、再訪したときに試してみようか。


新澪池跡周辺を散策した後は、三宅島随一のオアシスである大路池へと向かう。

遊歩道の入り口の一角に車を停めて、遊歩道を進み、大路池へと向かう。

三宅島についてから、火山活動の爪痕ばかり見てきたせいもあり、こんな深い森を見るだけでも、ちょっとした感動を覚えてしまった。

遊歩道の途中には、こんなアクロバティックな場所も存在するので、気を付けて進もう。

生い茂る緑の中を進んでいることもあって、まるで気分は探検家のようw

生い茂る緑をかき分けた先には・・・

「プロデューサーさん、大路池ですよ! 大路池!」(天海春香風味)

あれ? 今となりにいるのは千早のはずなんですけど・・・?

そんなことは、さておき、今回の遠征における最終訪問地大路池に到着した。

で、写真をよく見てみると、道路あるじゃん。車で奥まで入れたなこれ。

ところで、大路池は、かつての火口湖といわれていて、2500年前にできた池らしい。

三宅島の火山活動は、収まる気配を見せないが、奇跡的にも大路池周辺は、火山活動の影響をあまり受けていないせいか、緑が比較的多く残っており、まさに三宅島のオアシスともいえる。

さて、大路池の周辺は窪地になっていて、少し薄暗い感じを受けた。でも、木々の間から差し込む光はなかなか美しい。重なる噴火を経験してきた三宅島において、これだけ豊かな樹木に囲まれた場所は、ここ以外にはないんじゃないかと思うぐらい貴重な場所となっている。

この後は、写真に見える桟橋を経由して、池の周りを一周している。

遊歩道を桟橋方向に向かって歩くと、この画像のようにさらにアクロバティックな場所がある。

たぶん、大路池の遊歩道の中で最難所地点であろう。もう、これはしゃがんで進むしかない。

アクロバティックな場所を通り過ぎ、桟橋に到着。桟橋といっても、別に船とかそういうものはここにはないので注意されたい。

余談だが、このあたりでバードウォッチングしていた女性と少しだけ話をした。わいから話かけたわけじゃないけど、邪魔してサーセンでした。

大路池周辺で見られる野鳥の一覧が掲載されている表示板を撮影する。

この大路池の周辺には、アカコッコをはじめ、イイジマムシクイ、カラスバトなど多くの野鳥が棲息していて、バードウォッチングに最適なスポットとなっている。

大路池の近くにある「アカコッコ館」には、三宅島の自然に関する情報が展示されているほか、野鳥の会のメンバーが常駐していて、定期的に野鳥観察会が開催されているそうだ。なお、今回の遠征では時間の都合上、「アカコッコ館」には行けていない(というより、休館日だからどっちにしろ行けなかったがw)ので、次に訪問した時に訪れたいところだ。

桟橋近くに大路池の解説板があったので、撮影する。

この大路池には「たいろ藻」と呼ばれる水藻の繁殖地としても知られているらしい。しかし、度重なる火山活動の影響で、絶滅の危機に瀕しているようだ・・・。

桟橋の逆側に、古い大路池の解説板があったので、これも撮影する。

三宅島の観光地の解説板は、ほとんど新しいものに取り換えられている中で、貴重な古いタイプの解説板が撮れるなんて思っていなかった次第。

大路池の北側には迷子椎という三宅村の天然記念物に指定されている巨樹がある。樹齢は数百年といわれ、幹周りは7.5メートルほどあるそうだ。

迷子椎」という名前は、密林に迷い込んでも、この木を目印にすれば助かるといわれたことから名付けられたらしい。また、この大樹には「噴火を司る神」が宿るとされ、「やどり木」とも呼ばれているとのこと。

道路上から大路池を撮影した図がこちら。上から見る眺めもまたよかった。

四:離島本格訪島の熱冷めやらぬまま本土へ(東京 三宅島エリア~帰着)

今回の遠征の最終観光地である大路池を訪問後、休憩を兼ねて、阿古地区にあるふるさと体験ビレッジへと向かった。

ふるさと体験ビレッジは、レストラン・温泉施設・保養施設で構成される村営の総合施設である。

今回は、温泉に浸かったあと、レストランで昼食を食べることとした。

ふるさと体験ビレッジの温泉施設「ふるさとの湯」の内風呂を撮る。誰もいなかったから撮れたようなもんで、誰かいたらもちろん撮りませんw

入浴料は大人500円と、銭湯並みの価格設定で、内風呂のほか露天風呂もある。また、ここから眺める夕日は格別らしい。

ちなみに、「ふるさとの湯」は、現在三宅島で営業している唯一の温泉施設となっているそうだ。2000年の噴火以前は、ほかにも数か所あったそうだが、それらは噴火の影響により閉鎖を余儀なくされたらしい。

ふるさとの湯で、島の温泉を味わった後は、ふるさと味覚館で昼食をいただく。ここは、新鮮な魚を使った定食や寿司が評判のレストランらしいので、ここはいっちょ地魚丼を注文してみた。

うろ覚えだが、刺身はマグロとタイとメカジキがのってた気がする。一応、きたときにどの魚を使っているかの説明は受けてたけど、記事にするのが遅すぎて忘れたんだよ

新鮮な魚を使ってるだけあって、味は文句なしといったところでしょうか。今回は、食べなかったですが、三宅島では明日葉を使った料理が民宿・旅館などで食べられるそうなので、今度訪問した時は明日葉料理を食べてみたいっすなあ。

そういえば、遠征当時は、わいしか客がいなかった気がするけど、昼食や夕食時はもう少しにぎわってるのではと思う。

ちなみに、メニューを見ると、ほかにはジンギスカンやしゃぶしゃぶ、パスタ、カレー、うどん、そばなどのほか、定食類といったオーソドックスなメニューも充実していた。これは、島民や三宅島に仕事に来ている人たちへの配慮なのかもしれない。

でも、わいみたいな観光目的の客は、魚が苦手でない限りは、地魚系メニューを頼むことでしょう。ご当地料理をたしなむのも旅のだいご味だからね!


昼食と温泉が終わって、12:00を過ぎてしまったので、いよいよ帰り支度をしなければならない。はっきり言って、三宅島を観光するにつれて、三宅島は楽しいから帰りたくないと思いました。まる。

まず、帰りの船の入港地を確認(行きと同じく錆ヶ浜港であった)した後、ふるさと体験ビレッジを出て、急ぐようにレンタカー屋へと戻っていった。

12:30過ぎにレンタカー屋に帰着。精算を済ませた後、送りの車が来るまでコーヒーを頂く。実は精算時に送りの車はいたのだが、三宅島空港発羽田行きの飛行機が遠征当日出るらしく、飛行機便のほうが船便より早くでるため、空港利用客を優先し、船便利用客は待つこととなるため、間合いでレンタカー屋からコーヒーを頂いたのだ。

そうそう、今回借りたレンタカー屋は「コスモレンタカー」という所であるが、名称についてはある意味そのまんまで「コスモ石油のレンタカー屋」から転じて「コスモレンタカー」という名前だそう。まあ、なんともわかりやすいもんであるw

そして12:50頃に錆ヶ浜(阿古)港行きの送迎車がきて車に乗る。途中寝落ちしてしまったが、13:05頃に錆ヶ浜(阿古)港の待ち合い所に到着。この待合所で船が到着するまで待っていたが、往路の船でろくに寝てないせいもあり、30分ぐらい椅子に座って寝てたようであるw

錆ヶ浜港船客待合所付近の風景がこちら。近くには、三宅島の地魚が買える「いきいきお魚センター」がある。

錆ヶ浜港桟橋と遠くに浮かぶ大野原島を望む。

ちなみに、大型客船は、桟橋の右側に着岸(いわゆる左舷付け)するようになっている。

船客待合所内では、このように三宅島の名物が展示されていた。

酒は、焼酎の「雄山一」、食べ物系はくさや・明日葉・三宅漬・てんぐさ・牛乳せんべいといった名品がそこにはあった。

今回、土産は買ってません。なぜなら、手持ちの金がなかったからだよorz

そして、13:55頃に八丈島からきたさるびあ丸が汽笛を鳴らして錆ヶ浜(阿古)港に接近。ちょうどその時に天気が荒れ模様となり、強風ならびに降雨、さらには波の影響もあり、接岸は定時3分遅れの14:03に無事接岸した。

汽笛が鳴ったのを確認し、待合所の外を見ると、さるびあ丸が接近しているのが見えたので、桟橋へと向かう。

三宅島に着いたときは気にしていなかったが、船客待合所から桟橋までは地味に遠かった・・・。

さるびあ丸が、入港接岸作業に入る。背後に見えるのは近くて遠い神津島。

この接岸作業中に、降雨・強風に見舞われる。三宅島の空はわいのために涙雨を降らせてくれたのだろうか(それはない)

船体を大きく揺らしながらも、無事錆ヶ浜港に着岸するさるびあ丸であった。

着岸したと同時に、タラップがかけられ、現実世界行の船に乗る。

そして行きと同じ2等客室(和室)へ。三宅島から乗船の乗客が大勢いたにもかかわらず席の割当的なものか、他の上等客室を利用する客が多くいたのか知らないが、往路よりだいぶすいていた感じがあった。往路のときに指定の位置を確認したが、復路の指定された場所はコンセントからだいぶ離れており、充電芸できないのではないかと危惧していた。

しかし、そんな心配は無用で先に書いた通り、往路よりすいており、幸い私の近くには他にだれもいなかったため、余裕でコンセントを使う事ができ、無事に充電芸できることとなったのである。

出港は定刻通り14:20に錆ヶ浜(阿古)港を発った。出港後、往路では夜明け前で拝めなかった三宅島の全貌をしばし眺めながら、14:40ぐらいまで船のデッキで過ごしていた。

離れゆく三宅島をバックに千早を撮る。

果たして、三宅島を旅した千早はいったいどんな気持ちだったのだろうか・・・。

外部デッキからさきほどまでいたところをずっと眺めていた。奥に見えるは御蔵島。御蔵島もいつかは行きたい島である。

船上から雄山を望む。雄山は今もなお、火山性のガスを噴出し続けている。火山活動が収まる気配はしばらくなさそうだ・・・。

晴れてればよかったのだが、曇っていたので残念・・・。

そして、三宅島の全貌を撮影する。

そして、わいは心の中で・・・

「ありがとう三宅島。いつかまた来てやるからな!」

と叫んだよ。客いないから大きな声でいってもよかったけど、そこは抑えておいたw

三宅島の全貌を目に焼き付けた後は眠かったので1時間弱ほど寝て、それからまたデッキに上がって、大島エリア15件の代行案件を一気に回収した。往路に航海中の洋上回収も可能だということがわかっていたので、すばらしくおいしい回収となった。ぶっちゃけ大島エリアで回収した数は三宅島エリアで回収した数より多かったりするw

前回の遠征でご一緒したNisPの案件もしっかりとゲットしたZe!

てか、それなら先の伊豆アタックのあぜりあ丸でもおそらく洋上回収芸ができていたと推測(実際にやってないので不明だが、今回のケースを考えればできなくはなさそうである)されるが、その当時は色々な意味でそれどころではなかったとだけ伝えておく。

とはいっても、あのアタックのとき、多少なりの実験をして下田周辺と立ち寄った各島近海以外は位置情報とれなくてアウトだったような気がしなくもないが・・・。まあ、機会があればまた検証したいところであるw(ちなみに、アイモバ終了前に検証はしたが、ブログにはその結果を記載はしないことにする)

洋上回収を済ませた後はまた1時間ほど仮眠して、それから内房エリアの洋上回収を済ませ、またさらに寝る。次に起きたのはレストラン営業の船内放送で目が覚めた。夕飯を食うのにはちと早い時間だが、せっかくの船旅なので往路と同じくまたレストランに直行。レタスチャーハンと往路で食した軟骨唐揚げを注文して、今回のしめの遠征飯とした。

夕飯は、船でレタスチャーハンと軟骨唐揚げをいただいた。なお、レタスチャーハンを食べた感想はちょっと期待はずれだったね。はっきりいっちゃうと。

夕食後、千早と語るわい(という設定)。

そして、顔をそむける千早。彼女はいったい何を思っているのだろうか・・・。

そうこうしているうちに、さるびあ丸は東京竹芝桟橋へと近づいてきた。

この写真はレインボーブリッジの下を通過しようとしているところである。レインボーブリッジを通過してから10分ほどで東京竹芝桟橋につくのだ。

そして、東京竹芝桟橋が見えてきて、20:30頃に到着した。到着後、さるびあ丸とお別れし、今回の遠征も無事終了し、帰宅の途についた。

写真に写っている船は、今はなき「かめりあ丸」である。乗りたかったが、結局乗る機会を逸してしまった・・・。

そして、帰り際に浜松町のみどりの窓口で寝台特急あけぼの号(2014年廃止)の秋田から上野までの寝台券(B個室ソロ)の寝台券を購入した。

これは、何かの布石だろうか? 今後にご期待くださいw

伍:【資料その壱】東海汽船さるびあ丸について

最初は、ここに書こうと思ったんですけど、もうすでにガイド作っちゃったので、ガイドへの誘導リンクはりますから、そこからご覧くださいませ。

東海汽船さるびあ丸ガイド

あと、おまけですけども、現在三宅島・八丈島方面の航路に就航している船は、基本的に橘丸ですので、橘丸のガイドへの誘導リンクをついでに記載しておきます。

東海汽船橘丸ガイド

六:【資料その弐】三宅島の近年史および現況について

ちょっとだけだが、資料記録ということで、いくつか話題に触れることとする。

■高濃度地区の推移について

わいが遠征する前の話であるが、三宅島の高濃度地区指定箇所には阿古高濃度地区と坪田高濃度地区があった。

うち前者については解消されており、後者は2013年7月より高濃度地区から準居住地区へと規制緩和されたものの、居住するには様々な諸条件をクリアせねばならず、高濃度地区時代と比べても居住者はごくわずかしかいない模様である。(ただし前者の方は居住者がいたか確認してないが、レンタカーから眺めた限りでは集落がほとんど見当たらなかったことから、そんなに影響はないと思われる)。

さらに、わいが来島した後の2013年12月に坪田高濃度地区(本来準居住地区と表記すべきだが、便宜上この表記を用いさせて頂いた)の範囲が狭まり、準居住地区は沖ヶ平地区のみとなった。

なお、最後の準居住地区であった沖ヶ平地区は、2015年9月になってようやく準居住地区が解除されたそうである。

ちなみに、2013年夏ごろまでは、三宅島来島の際は、ガスマスクの携行を義務付けられていたが、わいが来島するころには、危険区域に立ち入る場合(一般人は入らないだろうけど)を除いて、ガスマスクを携行しなくても済むようになった。

余談ではあるが、わいが、来島するころは情報が錯そうしており、現地に入るまでどれが正しい情報かを判別するのが、困難な状態であったものの、現在はそういうことはないと思われる。

■三宅島へのアクセスについて

三宅島のアクセスは3通りあり、一つ目は東海汽船の三宅島/八丈島航路(通称:三八航路)を利用するルート、二つ目は羽田からANAを利用するルート(注意:遠征当時のデータ。現在は調布から新中央航空を使っていくことができる。)、三つ目はまず使う事は皆無だろうが、大島および御蔵島からヘリ(東京愛らんどシャトル)を利用するルートがある。

一般的に、三宅島への上陸は東海汽船航路での上陸がベターとされる(なお、海況不良であれば港に接岸できず、通過・引き返しすることはあり得る)。飛行機については使用する機材の老朽化に伴う機材整備による欠航ならびに現地三宅島における火山ガスの動向次第による欠航が多く、運航する方が珍しいぐらいのレベルのため、あてにしない方が吉であった。

船舶便については、わいが遠征したころは東海汽船さるびあ丸(もしくはかめりあ丸)であったが、2014年夏に、橘丸が就航して以降、基本的には橘丸が三八航路に入っている(橘丸がドック入りしたときや特定の日においてはさるびあ丸で運航することもある)。

航空便については、2014年春に、機材の老朽化と就航率の低さも相まって、羽田~三宅島間のANA航路が撤退、その代わりに新中央航空による調布~三宅島間の航路が就航開始した。

ANA便は1日1便であったが、新中央航空便は1日3便に増便している。とはいっても、増便の理由はあくまで使用機材がANAのものよりだいぶ小さいという理由であるため、1日に移動できる人数はさほど変わっていないのが現状である。

■三宅島の噴火状況について

詳しくは、こちらを見ていただくとして、近年の噴火状況としては・・・

1874年・1940年・1962年・1983年・2000年の各年に大規模な噴火が発生している。

参考までに、各年の噴火状況を以下に記す。

●1874年

神着村南方の山中で噴火。溶岩は北方に流れ海に5000m2の新しい陸地をつくる。人家45戸が溶岩に埋没。死者1名。

●1940年

7月12日北東山腹より噴火、溶岩流出。14日から山頂噴火。多量の火山灰、火山弾放出。死者11名、負傷20名、牛の被害35頭、全壊・焼失家屋24棟、その他被害大。

●1962年

8月24日北東山腹の海抜200~400m付近から噴火。多数の火孔から溶岩を海中にまで流出。噴火は30時間で終了したが、噴火中から有感地震頻発。焼失家屋5棟、山林耕地等に被害。

●1983年

10月3日南西山腹に生じた割れ目から噴火。溶岩噴泉、溶岩流。島の南部でマグマ水蒸気爆発が発生し、多量の岩塊が周辺に落下。溶岩流で阿古地区の住宅の埋没・焼失約400棟。山林耕地等にも被害。総噴出量2000万トン。

●2000年

6月26日から地震活動が始まり、27日に西方沖で海底噴火を確認。7月8日雄山山頂で噴火が始まり、7月14~15日、8月10、13、14、18、29日に噴火。山頂カルデラ内に直径約1.6km、深さ約450mの陥没孔が出現。降灰、噴石はあるが溶岩は噴出せず。低温の火砕流発生。火山灰多量。火山性ガスの噴出は1日あたり数万トンに及ぶ。全島民約3,800人が4年5か月の間島外避難。火山活動は継続中。

ちなみに、避難指示が解除された2005年2月1日以降も小規模ではあるが、三宅島各地で噴火しているそうである。

■三宅島って安全なの?

わいが、三宅島遠征をするさい、直近の界隈2名(遠征当時FF外だった)から揶揄されたもの(今じゃ、笑い話ですむけどもw)だが、三宅島は怖くないぞというのを示すために、三宅島/八丈島エリア内のうち、三宅島を選んだというのもある。

遠征当時、情報錯そうで苦労はしたものの、正直いってしまえば・・・

「完全に安全とはいいがたいかもしれないが、三宅島に行くのは怖いことではない」

というのが、わいの結論である。

もちろん、現在も火山ガスを噴出し続けているし、いつ大規模な噴火が発生するかはわからないから、完全に安全宣言するのは難しい。

けれども、三宅島に行ったことで、いろいろなことを知ることができた。特に火山活動に関することは、おそらく日本の中で三宅島が一番生々しいのではないかと思っている。だからこそ、地学を学んでいる人にとっては絶対に行くべき場所だと思う。

ただし、呼吸器系が強くない人は、当面の間三宅島に行くのは避けたほうがいいかもしれない。もし、行きたければあらかじめ医師に相談することをお勧めする。


というわけで、過去のアイモバ遠征記録第拾参弾はおわりでございます。

華々しい最後のエリア踏破を迎えると思いきや、かなり重苦しい雰囲気になってしまいました・・・。

その影響もあり、いつもとはちょっと違う雰囲気の記事になってしまいましたけれども、わいのブログを見てくれている皆様に少しでも三宅島の現状(といっても行ってから3年たっちゃってますけどね)を知ってほしいというのもあり、あえてこういう構成にさせていただきましたことお許しいただければと思います。

さて、次回の過去のアイモバ遠征記録第拾四弾の予告ですが・・・。

次回からは赤塗り紀行+直近の界隈メンバーとの遠征編に変わります。

まずは、赤塗り紀行第一弾、東北大回り編その壱をお伝えします。

高速バスで迎えた朝に、壮絶な風景が? そして、途中で電子機器のバッテリーが尽きるなどといったハプニングも多々ありますが、しっかりと赤く塗った記録をお伝えしたいと思います。

なお、ブログに書けるネタがある大遠征はあと5回ほどとなります。春先までには終わらせたいなあなんてw

ではでは、今回もご覧頂きましてありがとうございました。

今回の三宅島編、前編・後編とも長すぎてすみませんでした。


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